相良氏

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相良氏

初代 相良長頼公 画像

  さがらし

出自

藤原氏南家乙麻呂流

 

 

本貫地

遠江國榛原郡相良郷

 

 

現住所

肥後國球磨郡

 

 

職業・所属

遠江國の御家人、人吉荘等の地頭(中世)→人吉藩主(近世)

 

 

形態

西遷御家人


人吉相良氏歴代当主

頼 景(蓮寂)

長 頼(蓮仏)

頼 親(観仙)

頼 俊(迎蓮)

長 氏(蓮道)

頼 広(蓮喜)

定 頼(契阿)

前 頼(立阿)

実 長(実阿)

前 続

尭 頼

長 続

為 続

長 毎

長 祇

長 定

義 滋

晴 広

義 陽

忠 房

長 毎

 

 

戦国家法

相良氏法度

 

   ・為続が制定の7ヵ条

 

   ・長毎が制定の13ヵ条

 

   ・晴広が制定の21ヵ条

 

[主な内容]

人返し条項、用水に関する規定、土地売買に関する条項、一向宗の禁止条項

 

略歴

 

建久4
(1193)

頼景、多良木庄の地頭となり下向。

 

元久2
(1205)

長頼、人吉荘の地頭となる。

 

承久3
(1221)

承久の乱で、長頼は幕府方に従う。

 

寛元2
(1244)

人吉荘本荘が下地中分され、北半分は得惣領に。

 

正平8
(1353)

目田河原で下相良氏が上相良氏を破り、球磨郡統一への一歩を踏み出す。

 

天授4
(1378)

前頼、南朝方につく。

 

明徳4
(1393)

定頼、都城へ進攻し、島津軍の前に弟3人とともに討死。

 

文安5
(1448)

永富長続が下相良家を継ぎ、球磨郡統一。

 

寛正6
(1465)

長続、名和氏より八代高田郷350町を得る。

 

明応2
(1493)

為続、七ヶ条法度を制定。

 

永正1
(1504)

長毎、菊池氏と結び、名和氏を八代地方から追う。相良氏八代古麓城入城。

 

天文3
(1534)

義滋、本拠を人吉から八代へ移す。
 <球磨・葦北・八代3郡支配>

 

弘治1
(1555)

義晴、21ヶ条の法度に一向宗禁制を定める。

 

永禄2
(1559)

義陽、島津氏に進攻され、八代から人吉に居を戻す。

 

永禄6
(1563)

相良領内で一向宗成敗。

 

天正9
(1581)

義陽、響ヶ原の合戦で甲斐宗運に討たれる。
 <球磨郡1郡のみ>

 

天正16
(1588)

球磨郡は相良領、肥後北半は加藤清正領、南半は小西行長領となる。

 

慶長12
(1607)

相良藩、人吉城の改築をはじめる。

 

 

 

 

 

球磨人吉地方

 

 

上相良氏:頼氏系の多良木、南北朝まで惣領家

 

 

下相良氏:頼俊系の人吉

 

 

永富氏:頼親系の下相良庶流

 

 

上村氏:頼村系の庶流

 

 

球磨人吉地方以外

 

 

高橋氏:宗頼―頼元系で山鹿郡

 

 

内田氏:宗頼―頼重系で飽託郡

 

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